アパートのドアを開けて出かけようとした時、丁度真下にあたる階下の扉も開いた。
アディダスの黒ジャージを着たデブが巨大な黒い袋を3つ抱えて現われる。 奴と鉢合わせになるのは嫌だなと思った俺は、 靴の踵をいじってタイミングをずらそうと粘った。 俺が越してきた時は空き家だった階下の部屋にデブが住むようになったのは3ヶ月前だろうか。 別に引越しの挨拶にきたから時期を把握しているのではない。デブの笑い声が俺の部屋によく響くので、 覚えてしまっただけの話なのだ。 丁度3ヶ月前といえば俺の血中無職濃度がもっとも高かった時期。先日医者に半無職と診断されて最悪の事態こそ回避したものの、 その当時俺は自分の現状に思慮を向かわせないべく、部屋で本ばかり読んでいた。 すると夜中の8時を過ぎると毎晩のように、「ムフフフ、何言ってるんだよ!」「イヒヒヒヒ、駄目だよそんなの!」 とデブ特有の甲高い奇声が下から突き抜けるように聞こえてくるではないか。電話でもしてるのかなと思っていたが、 一月ぐらいしてそれがテレビに向かって笑いながらツッコんでいる声だという事に気づいた。 何故判明までそんなに長い時間を必要としたかといえば、デブが見るのがオールぬるいバラエティ番組で 俺の嗜好と完全に一致していなかったからだ。「笑う犬の生活」で涙を流して笑い、「恋のから騒ぎ」で絶叫し (よく分からないが本当に叫ぶのだ)、「ガチンコ」なんか御輿担いで縁日出てるのかと思うくらい大騒ぎしていた。 もし俺が河村亜紀見たさに「エブナイ」水曜日にチャンネルを合わせていなかったら、迷宮入りしていたであろう。 ある日また童貞の断末魔のような絶叫が聞こえてきたので、どう考えても笑う番組なんてないのだがとチャンネルを回して 捜していたら、「モグモグコンボ」だった日にはどうすればいいんだいDJ(臀部に釘が刺さってるけど・ジャンプは熟読)! そして全く人に言えた義理ではないのだが、このデブが職業不明。平日もほとんど部屋に篭り、調子のいい時は 「笑っていいとも」を見ながらタモリにヘッドが甘いとか、スナップを裏返してとアドバイスを送っている。 そんな愉快なデブ君なので言動は逐一チェックしているのだが、それにしてもあのデカい黒のビニール袋は何だろうか。 それも3つも。まさかゴミではないだろうな、と俺は靴紐を結び直した。 俺の住む地域の生ゴミは火曜、木曜、土曜収拾で、現在は土曜の午後。まさに回収が終わったばかり。 今規則を無視してゴミを出せば最長の3日間放置ということになる。 結構生真面目な俺は煙草のポイ捨てや、ゴミを前日に出したりするのが許せない性質なので、それを見逃す訳にはいくまい。 とはいえゴミを前日に出す奴というのは、ある程度罪悪感に駆られて人目を盗んでこそこそと置き逃げるものだ。 それをまさか白昼堂々、人の往来も激しい通りで、しかも今時半透明ではなく買う方が難しいような黒ビニール。 こんな巨大なゴミを捨てる可能性はさすがにゼロと言ってもいいだろう。 デブの後を追おうとアパートを出た瞬間、俺が目撃したのはゴミ捨て場に袋を何の躊躇もなく放り投げているデブの姿だった。 注意してやろうかと思った次の瞬間、俺はある光景を凝視した。デブは明らかに罪の意識が微塵もない笑顔を浮かべ、 「一仕事終えたぜ! 労働ってサイコーだね!」とばかりに実に満足そうに額の汗を拭っていた。 負けた。 煙草一本捨てるのが許せないはずの俺なのに、その迷いのない行動に敗北を感じていた。なぜか爽やかな気持ちすらしてくるから不思議だ。 人を一人殺すと犯罪者だが、戦争に持ち込めば英雄ではないか。デブ・ザ・ヒーロー、ヒーロー・ザ・デブ。 とにかく奴は、俺の小さな概念では通用する相手ではないのだ。 小さな正義感が泡のようにはじけ、全てが無意味化していくようだ。 俺は眩しい昼の日光の中、デブの背中を見つけた。アディダスだと思っていたジャージはよく見ると無名メーカーで、 洗わずに固まった汗が白い三本線を描いていた。
ところが翌日から階下が嘘のように大人しい。割って噛んでという行為を忘れて西瓜でも食べてしまったのだろうか。 |
道頓堀と戎橋が交錯するあたりに浪花座は存在する。
大阪ではコンビニの倍はあると言われる街のドリンクステーション・格安チケット屋で購入した招待券を片手に、俺は劇場の中に潜り込んだ。 今日もどこかでお笑いの興業が打たれている大阪の街であるが、知名度が高いのは吉本の花月である。 しかしライバルである松竹も自社劇場を所有し、毎日演芸興業を行っている事実はあまり知られていない。 当初俺も行くつもりはなかったが、関西のお笑い事情通の知人が、 「・・・あそこに行くとねえ、煮しめたような漫才が見られますよ」 とコーヒーショップで周囲に聞かれないように声を潜めて吹き込まれたものだから、足を運ばずにはいられなくなったのだ。 入り口をくぐると、舞台に対して傾斜のある客席だ。開演を待つ爺さん婆さんは腰が曲がっているので、丁度地面と垂直になっていて見やすそうである。 花月は殆ど団体客らしいが、ここはタダでもらった招待券で来た連中しかいないのが歴然としていた。 その前夜吉本の若手ライブをやる小屋では300人入るかという客席に男は俺だけ、あとは10代のパンパン だったというのに、この温度差はなんだろう。しかしあれはあれでチムポが萎える。 さて俺は読者に、この黴臭い劇場の雰囲気を伝えたいが、状況描写だけでイメージを喚起させる自信がない。 そこで一番確実な方法と思われる、当日の出演者のプログラムをまる写ししよう。 ・安田と竹内 ・ミヤ蝶美・蝶子 ・ブラッシュ(池本・谷口) ・浮世亭三吾・みゆる ・レツゴー長作 (休憩) ・マジック中島&ひろみ ・ダックスープ(木藤・宮崎) ・桂昇蝶 ・夢野タンゴ・園ひとみ ・はな寛太・いま寛大 煮しまってるでしょ? もう海老茶色って感じでしょ? 箸でつつくだけで崩れそうだろ? この面子を見た前述の事情通に至っては、「師走の興業なのに、やる気あるのか?」と本気で心配していたくらいだ。 トップバッターの安田と竹内は若手。ビシッとしたスーツに身をくるみ、「俺サッカー部だったからリフティング上手いで」 とボールを持ち出し、その技術を披露。キャリアと覇気と笑いとオチに欠けた舞台をこなして退場していった。 お笑い第五世代の足音が聞こえた。 続くミヤ蝶美・蝶子は10何年前はお笑いスタ誕で9週勝ち抜いた手練らしい。その後、お互いの結婚を期に解散。 数年前お互いの離婚を期に再結成。ネタはバツイチだけで押す押す押す。声の通りと、横にいたババアのハートを掴んだことでいえば、 今日本でトップランキングに入るだろう。 浮世亭三吾・みゆるは親子漫才である。娘の方がやや可愛いくらいの女性であるところに、 逆に何やらディープな気持ちになってしまった私はおかしいだろうか。強い娘と駄目な親父という案の定な筋運びは、 ヒップホップのループを彷彿とさせる安定感だ。 そして前半の締めはレツゴー三匹の長作師匠。三味線を持って登場し、三味線を使わず客をいじり倒す漫談を 延々とストレッチ体操のようにこなした後、最後唐突に「津軽じょんがら節」を披露して帰っていった。 それが妙に上手な演奏だったところに、ヴォネガットの小説に通じる理不尽性を感じて心地よい。 前半でこれだから後半は推して知るべしである。しかし俺くらいのジャンクなお笑い観察者になると、 「つまらないのが面白い」という逆説な見方ではなく、純粋に面白かった。 何がすごいかって、はな寛太・いま寛大が出た時の会場の「やっぱりトリは彼らが締めないと」というような安定した空気だ。 だって「はな寛太・いま寛大」だぜ? 誰だよそれはって話だ。 と思いつつもその舞台を楽しんで見ていた俺ではある。これは実話だが、それなのに劇場から出た瞬間から彼らのネタを全く思い出せないでいる。 これこそが彼らの真の実力なのかもしれない。 |
東京都町田市。私が居を構える地味な街だ。 比較的治安がいいと安心していたら、昨日公園をジョギング中、自転車のカゴに突っ込んでいた上着を盗まれた。 今でもこの上着を思い出すだけで、私の心には山崎まさよしの「One more night、One more chance」の旋律が流れてくる。 どうにも町田は平和な場所ではないらしい。そう確信したのは、夕方のニュースの6時30分あたりのワンコーナーを見たからだ。 各局がネタかぶりを何とも思っていないで、「激安店の裏側に潜入!」「ウッソー! 1000円で食べ放題、ホテルのランチ特集」 「3ヶ月で10キロ痩せる驚異のダイエットって?」で、かっちりローテーションを回す例の時間帯。 ちなみに驚異のダイエットは、ゴムバンドを巻いて腰をグラインドするやつ以外紹介された試しがない。 今回ローテーションの谷間に起用された新人は、「クリスマス到来!イルミネーション大特集!」だった。 どうせ都内のデパートの様子を流すのだろうと思ったら、町田のとある住宅街が出てくるではないか。 映された一戸建て住宅が、庭にライトを過剰にデコレーションして、ドレスアップした家を光らせる光らせる。 その光りかたたるや、最終回の方で体のパーツがもげたガンダムがビームサーベルを頭上高くかかげた瞬間のようだ。 それも一軒だけではなく、この家が面した通りの全ての家がそれを行っている。町田に灯火管制条例はないのか? マッカーサーが名誉市長の神奈川県綾瀬市では、まだ休日の防空壕掘りを推奨しているというのを見習ってほしい。 風変わりな家庭だけが一軒だけキンキラ輝いているなら、事情は察しがつく。きっと中では敬虔なユダヤ教徒が 壁にヒランヤみたいな紋章を張って、 生ターキーの首をかぷつくメリークリスマス(蕪村) であろうから。 しかし住宅街総出という現象は、明らかに女子高生ガングロが無意味に濃度を深めていったように、 出発点も目的地もないレースのためのレースに煽られているに違いない。 「あなた、隣の田中さんの家でマグネシウムを焚いてるわよ!」 とか聞いたお父さんが慌てふためいて、それならこれしかないと家中に重油を撒き出したりするのである。 翌日の見出しが「万年課長補佐、起死回生のファイアークリスマス」。こいつはめでたい。 そもそも26年生きてきてクリスマスにテンションが上がったことがない人間にとっては、彼らの行動が全く理解できない。 昨年までサムリオという、労働組合がないチャウシェスク政権下のような企業に勤めていた私である。 本当にクリスマスというのはツリーやら何やら売れて、冗談ではなく12月24日に店に客が殺到するのだ。 私は未だに「トゥルーマンショー」のような大掛かりなドッキリだと信じて疑わない。 こういうギフトを買う輩は、車をイルミネーション街に走らせるのだろう。 彼女がくれた車のキーのマスコット。助手席でメンソールを吸う彼女の唇に浮かぶ微笑。 そしてDJ。カーラジオからお決まりのあの名曲を流しておくれよ・・・ 「♪ニャーニャ、ニャーニャー。ニャーニャ、ニャーニャー」 Yes! ローソンでよくかかっている、猫の声をサンプリングした「聖しこの夜」! ロックンロール・ネバー・ダイ! ニュースを見たところ、実際に多くの観光客が訪れるらしい。当然そんな幻想を共有しているカップルは日々是夢精中だから、 マナーがいいはずもない。イルミネーションを施している住民はカメラに向かい、 「困るんですよねえ・・・そういう人とか、こんなテレビ取材とかはねえ・・・」 とダチョウ倶楽部上島的逆説表現を滲ませながら、微笑みを隠しきれていなかった。 まあ「未来日記」がどういう企画かも理解していない私にとっては遠い世界の話には違いないが。 それより盗まれた私の上着はどうなったのだろう。心の中では2曲目の「ドナドナ」が鳴っている。 |